彼の嗜好、彼女の思考

「そうそう、エタノールを入れてガラス棒でくるくるーって、ほら、取れた!」
 学生実験で、学生以上にはしゃいで楽しそうに実験指導をする女性、桂木弥子。この学校の助教で、専門は生化学。
 出るところすら出ていないスレンダー体型だが、大飯喰らいで、研究室では常に何かを食べているという。彼女の体のエネルギー効率が、生物研究室の学生の裏テーマとなっているとかいないとか。

「桂木先生、たかだかDNA抽出したくらいではしゃぎすぎですよ」
 冷静に器具を片づけながら彼女に声をかけたのは、整った容姿と突出した頭脳で他学科にまで知れ渡っている学校の秀才、脳噛ネウロ。人当たり良く微笑む姿は色気さえ感じられて、未成年である彼の女性経験を疑わずにいられない。
 桂木弥子含む理系女子でさえ、彼の一笑みに一瞬心を奪われてしまう。あどけなさを辛うじて残した笑顔は、縁なし眼鏡と白衣によって艶を増す。

 彼のこの笑顔が実は自分にしか向けられていないということに、桂木弥子はまだ気づかないでいた。


「桂木先生、レポート持ってきましたよ」
 かちゃり、と教官室の扉を開けて中に入れば、桂木弥子はシュークリームを頬張りながらパソコンで作業をしていた。
「ああ、脳噛くん……、再提出だっけ」
「ええ」
 にっこりと笑って、脳噛ネウロはレポートを手渡す。桂木弥子はそれを受け取って、パラパラと軽い確認をするが、何故だか腑に落ちないような顔をした。
「今日は笹塚先生は出張でしたっけ」
「うん、そう……あ、脳噛くんさぁ……」
「はい?」

「最初の提出の時思ったんだけど、わざと間違えてない?」

「…………」
 指についたカスタードクリームをぺろりと舐め、レポートに視線を落としたまま尋ねた彼女に、彼は一瞬、目を丸くした。
「よく、気づいたものだな」
「へ? …ちょ、脳噛、くん……?」
「直感、というのもなかなか……侮れない」

 直視したら動けないような眼差しで、彼は彼女を見つめる。普段の穏やかな秀才の仮面をはずし、一歩ずつ、静かに距離を縮めて。視線をはずせないまま、彼女の細い手首は捕まってしまった。

「……それが、君の“素”なの?」

 多少の怯えを見せながらも、桂木弥子は逃げなかった。脳噛ネウロは彼女の質問に、美しい微笑で答える。見てしまったが最後、虜になるしかない。それはまるで魔物の笑み。

「僕の直感も、貴女のも……」

 そのまま自然に引き合うように、二人の唇が重なる。万有引力って人同士にもあるんだ、なんてどうでも良さそうなことが頭に浮かぶ。

「……とても、好ましいものだ」

 そんな囁きが聞こえて、唇が離れたのだ、と認識する。

「では、先生。レポートの採点、お願いしますね」

 呆けたままの彼女を残し、彼は颯爽と部屋を出た。


 数秒後、我に返った桂木弥子。途端に心臓の鼓動が自己主張を始める。ただ触れあっただけのはず。なのに、いつまでも熱が引かない。

 今までにないほどの動揺。

 思い当たるファクターは、二人の立場? それとも、隠されていた正体を知ってしまったから? それとも――彼、だから?

++ fin ++




戻るか?