不【できない】

 かつてない規模の人体実験……。「新しい血族」として進化した人間が、さらに人為的な変異を望んでいる。そしてその目的は、奴らの祖先の目的と何ら変わることはない、「優れた殺人の道具を作る」こと。

 その実験の副生成物の一つが、Xの存在なのだろう。……いつだか、ヤコがあやつを心配していたな。自分を攫い、利用した者にすら心を配るなど、実にミジンコらしい……と、愛おしき奴隷を思案していたところへ、か細い声が、脳に直接入ってきた。

 ――だめ……みな、いで……。

 我が輩は、あらかた喋ったであろう女を足蹴にし、ヤコへ着けている魔界虫へと意識を集中した。
 網膜に映る映像は……女子トイレの個室、か? ヤコはぺたりと床に座り込んで、手のひらで映像を遮断しようとしている。同時に、苦しそうに口を手で押さえて、泣いていた。

 一体何を泣く必要があるのだ。核心とも言うべき情報を手に入れ、着々と、あの男を倒す算段ができていくというのに。今、貴様は泣くのではなく、我が輩と共に笑うべきだろう?

 何が貴様をそうさせている?
 何故そんなにも苦しんでいるのだ?

 あまりにも小さく頼りなく震える姿が見え、このまま消えてしまうのではないかと感じ……脳の奥がざわついた。

「ご主人様……」

 ふと足元を見ると、我が輩の靴の下で、恍惚の表情を浮かべる女がいた。そうだ……、奴隷とはこういうものだ。主人を慕い、助け、主人に媚び、その身を差し出す。この女はほぼ完璧に調教できたと言って良い。しばらく忘れていた、奴隷に傅かれる優越感。
 その点、調教らしい調教をしていないヤコは……我が輩に逆らい、意見し、おおよそ奴隷らしくない。だが、その自主的な行動が思いの外好ましく……そんなヤコを、我が輩は愛したのだ。この感情はこの先もずっと、ヤコ以外に向くことはないのだろう。

「……チッ」
「ネウロ様……?」

 小さく舌打ちをし、女を踏んでいた足をヤコのいる方へ向ける。戸惑う女を無視して、無気力な幻灯機(イビルブラインド)を使い、堂々と女子トイレの中へ侵入した。

「…………ヤコ」

 個室の前で名を呼ぶも、返事はない。それどころか、さらに身を縮めてしまう様子が映し出される。我が輩は苛立ちを隠せず、個室の扉を強く叩いた。
「ヤコ」
「っ……ね、うろ……?」
 ようやく聞こえた声は、もはや震えることを隠せてもいない。我が輩達を分断しているのは目の前の木の板一枚のみ。無理矢理ぶちこわしても良いのだが……。
「出てこい、ヤコ」
「ゃ……やだ……」
 涙声の反抗があまりにも不快で、我が輩に強硬手段を執らせる。魔力で扉の鍵を開け、強引に中へと入り、また扉を閉めた。魔界能力は既に解除してある。

「ネウ……っん……」

 涙を流している目を大きく見開いて、その眸に我が輩を映すヤコ。我が輩はその腕を掴んで力任せに引き寄せ、乱暴に唇を奪った。
「んっ…んぅ、ふ……ぅ……」
 舌で唇をこじ開けて、歯列を割り、ヤコの舌を求める。逃げられないように頭と腰をホールドし、深く絡ませる。

 悲しみの涙など見たくない。だが、何がヤコを苛んでいるのかが解らない。優しく慰めるなどできない。最良の策など思いつかない。

「ん…ぇう……ネウロ……」

 ヤコの腕が我が輩の背中に回り、その爪がジャケットに食い込む。しがみつき、縋る様子に、自ら出向いたことが正解だと知る。
 我が輩はことさら強く抱きしめ、一瞬離した唇を再び重ねた。角度を変え、深く、何度も、貪るように。
 不甲斐ないことこの上ないが、他に何もできず、導き出した「正解」に頼るしかない。涙の理由など、後で問いつめればいい。

 少しでもヤコから悲しみを追い出せるなら、いくらでも我が輩を与えてやる――。

++ fin ++




戻るか?