その日は依頼人も取材陣も来なくて、退屈な一日になるはずだった。弥子は事務所でソファに深く腰掛けて、作業中のネウロをじっと見ていた。心の中で、黙ってれば何やっても様になるのになぁ……なんて呟いたら、急に視界がとろんとしてきた。
「ほえ? あれ〜?」
でろりと視界が歪む。弥子は何だか楽しくなってきてしまった。
「ね〜う〜ろ〜〜、なんか、変ぅにゃ〜」
ネウロがソファを見やると、いつぞやの、取引事件の時のように、弥子がとろんとした顔をしていた。
「……貴様、また吸ったのか……?」
ネウロはソファに近づき、弥子の周辺を観察するが、特に“片栗粉”のようなものは見られなかった。
「…………ああ、そうか。これが」
弥子の症状に一つ思い当たるものがあった。フラッシュバックという現象だ。
それは、麻薬などによって引き起こされる幻覚、妄想などの症状が、後になって日常生活の中の何気ないきっかけで自然再燃する、というもの。
今、弥子には、あの夜のことが鮮明に頭に蘇っている。無性にネウロに抱きつきたくなって。ネウロが好きでたまらなくて。この想いを、今なら言ってしまえるような気になって。そこで、幻覚だろうか。ネウロが自分を強く抱きしめて、唇を重ねて、舌を絡ませてきた……ような気がした。
「???? あれ??」
「…………」
「あれれれれ?????」
何だか混乱しているようなので、ネウロは下手なことはせずに、弥子の幻覚が収まるのを待った。時間をおくと、ゆっくりではあるが、次第に弥子の頭ははっきりしてくる。
「……事務所、だよね」
周りを見て頷く弥子。麻薬による幻覚や妄想は、意外とはっきり現実と区別できるもののようだ。しかし、何故そんな幻覚を見たのか。弥子にはさっぱり解らなかった。
「あれ……ねぇ、ネウロ……あの……その、えっと……」
「何だゾウリムシ。言いたいことがあるならさっさと言え」
弥子は聞きたいことと、さっきの幻覚で、すっかり顔を赤くして。
「えっと……ね、ネウロとその……キス、したのって、あの…ネウロ、優しかった、よね?」
ネウロは深い溜め息を吐いた。どうやら幻覚が事実を掘り起こしてしまった、ということに気づいたようだ。
「……ほう、我が輩はそんなに優しかったか?」
「え……だって、あの楡の葉の……」
弥子は自分のファーストキスを思い出して、赤面した。優しく抱きしめて、触れるだけの優しい口づけをくれたネウロを思い出して……。だけど、さっきの少し強引なネウロの幻覚も気になって。
しかし、そんな弥子に、ネウロはさらっと事実を言った。
「貴様と我が輩の口づけはその夜が最初ではないぞ」
「嘘ぉ!!?」
目玉が飛び出さんばかりに驚く弥子。それもそうだろう。自分がファーストキスだと思っていたのが最初のキスではなかったのだ。
一体いつの間に……あの幻覚は……?
ネウロはニヤリと笑って、あの夜のことを語った。
望月にはめられたあの取引の夜のこと。麻薬でおかしくなった弥子がネウロに抱きついてきたこと。抱きしめ返してみたら、この上なく嬉しそうにしたこと。そして、唇を重ねたこと。
「それも、いわゆるフレンチキス、というやつだ」
「フレンチ……じゃあ、軽い、ちゅってやつじゃないの?」
その言葉に、さらに深い溜め息を吐いたネウロ。
「これだからゾウリムシは……フレンチキスというのは、深く舌を絡ませるディープキスのことだ」
「…………ええええっっ!?」
弥子にしてみたら衝撃の事実。顔が、これ以上ないほど赤く、熱くなっている。ファーストキスがそんな激しいものだったとは、思いも寄らなかったのだろう。茹だった蛸のような弥子を見て、ネウロはにっこりと笑って、弥子に顔を近づけた。
「まさか先生、お忘れになったのですか? あんなに熱く口づけあったのに……」
「あ、あんな、あつ……あつっ……えええぅんんむぐっ!?」
激しく動揺する弥子に、ネウロは唇を重ね、強引に舌を差し入れて、弥子の口内を蹂躙した。
「ぅふ……んん……はぁっ……」
一気に体の力が抜けていった。そんなはずはないのだが、未だにトリップしているのではないかとさえ思った。だけど。
「今度は忘れないでくださいね、先生?」
にっこりと黒い笑顔を見せるネウロを見て、幻覚でないことを確信する弥子であった。
++ fin ++