「どうしたウジ虫。今日はアカネのトリートメントの日ではないのか?」
呆けてる奴隷に軽い鞭を一言。ヤコは、我が輩がHALの謎を喰ってからというもの、以前にも増してだらしなく考え事をしている。どうせ我が輩の理解の範疇を超えたことなのだろう、と思う。そう思うことで胸の辺りに締め付けられるような感覚を覚えたのはいつからか。
少しの間の後、秘書のアカネがなにやらその髪を揺らしている。ヤコが、泣いているらしい。「大丈夫」「ちょっとごめんね」とだけアカネに言い、給湯室へと駆けていった。一体何処が大丈夫なのか。我が輩は深く溜め息を吐いた。
ヤコが泣く。そのことを、いつからか不快に思うようになった。涙を零すその意味を、感情を、我が輩は理解できない。対応に困るのだ。そう言えばHALの謎を喰った時も泣いていた。
「…わかんないよっ……あんたなんかには……!!」
我が輩の手を弾いて、絞り出すように言った。確かに、解らなかった。HALの感情も、それを聞いたヤコの心境も。「大切な人を失うと悲しい」と言うことを、知識でしか知らない。
「…………そうか。ならばいい」
我が輩が言えるのはそれくらいしかなかった。
今も、どうしたらいいか解らない。解らないが、とにかくヤコに泣かれたくない。そう思ったら、自然と後ろから抱きしめていた。
「どうすれば泣きやむ?」
ともすれば縋っているようにも見えるだろう。しかし、駄目なのだ。この涙の前に、我が輩は為す術がない。この、初めて抱く感情が何という名なのか、頭では解っている。
「あんたが、今言ったその気持ちがどういうものなのか解ってくれたら……」
解っている、と告げれば泣きやむのか。この持て余している感情を、この少女に示せば笑ってくれるのか。自然と腕に力がこもる。
「いいよ、もう泣きやんだ」
そうして考えているうちに、ヤコは自ら涙を拭い、健気に笑顔を見せた。それだけで、胸の内から暖かい何かが生まれるのが解る。
伝わるか解らない。伝わっても拒絶されるかも知れない。それでも、そうせずにはいられない。我が輩はヤコの顎を持ち上げて、唇を重ねた。この行為が、その気持ちを示すサインだということも知識として頭にある。そして今、感情で解った。
正面から抱きしめれば、応えてくれて。拒絶されなかったことに心の底から安堵している。きっと、だらしない顔をしているに違いない。悟られぬよう、ヤコの頭を抱え込むように胸に押しつけた。
人間達が互いに心の底から相手を想い、また相手から想われるのは砂漠の砂粒ほどの確率だという。なら我が輩は……魔界生物である我が輩が、異種のものと、人間と出逢い、そして今こうして惹かれている。それだけでもう、砂粒も同然ではないか。それなら、この人間が我が輩の想いに、真に応えてくれる確率は、それこそ天文学的数字だ。
――そう思っていた、近くて遠いあの日。
++ fin ++