HALを消去した。涙が止まらなかった。HALの……春川教授の想いが、酷く心に響いて。「こんな犯罪を犯しても、彼女は喜ばない」なんて陳腐なことは言わないし、思わない。こんな赤の他人が彼女の気持ちを代弁できるはずがない。何より、春川教授の深すぎる愛情は誰にも否定できない。それだけ人を愛せて、あらゆる手を尽くしきった彼を、間違ってるだなんて言えない。
そうして、事務所に日常が戻ってきた。だけど私はいまいちスッキリとした気持ちになれなかった。
あの時、確かに頭に思い浮かべた。「間違えれば国中を危険にさらしてでも、助けておきたい奴」のこと。あいつ……ネウロのことを。私は本当に色気より食い気で、こと恋愛に関しては鈍い方だと思う。けど、ネウロへの気持ち……誰を、何を犠牲にしてでも、助けたい……その気持ちは……。
「どうしたウジ虫。今日はアカネのトリートメントの日ではないのか?」
「あっ、そうだった。ごめんね、あかねちゃん」
このネウロの科白だって、他意はないんだと思う。ただ、そのスケジュールだから、そう言っただけ。私やあかねちゃんを気遣っての言葉ではないのだろう。
『弥子ちゃん? どうしたの!? 泣かないで! 相談ならいつでも乗るよ!!』
あかねちゃんが戸惑ったようにおさげを揺らした。いつの間にか私の目から涙が零れていた。
「え……あ、だ、大丈夫。ちょっとごめんね」
私は給湯室に駆け込んだ。ネウロのことを考えただけで涙が出るなんて。どうしちゃったんだろう、私。
「何を泣いている? 人間というのは妙な生き物だな」
背後にネウロがいる。その科白はあの時を思い出させる。
「泣いてるのか。それは妙だな。貴様は泣くのではなく笑うべきだ」
「…わかんないよっ……あんたなんかには……!!」
ネウロの手を弾いて、酷いことを言った。八つ当たりだ。でも実際、魔人にこんな感情があるのかは解らないし。想いは私の一方通行なんだと思う。
「…………そうか。ならばいい」
そんな私にネウロは静かにそう言った。その言葉が諦めなのか優しさなのか、解らなくてまた泣いた。
ネウロはきっと私の涙を理解しない。魔人には人間の感情は理解しがたいのだろう。私が……人間が、魔人の考えてることが解らないのと同じように。そう、思いこんでいた。
「どうすれば泣きやむ?」
思いも寄らない言葉が聞こえた。振り返ろうとしたところで、後ろから抱きしめられた。
「我が輩は……知っての通り、貴様ら人間の感情ははっきり言って解らん。だが……ヤコ、貴様がそうやって泣いているのは、どうにも我慢がならんのだ」
「え……?」
「どうすればいい?」
ネウロが、私に、そんなことを言うなんて。天変地異でも起きる? ねえ、それが、その感情が、何だか解ってる? 私はためらいながらも口にした。
「ネウロが……」
「何だ?」
「あんたが、今言ったその気持ちがどういうものなのか解ってくれたら……」
「…………」
解らない……よね、やっぱり。私を包む腕からも、自分の感情を持て余しているらしいことが解る。それを、私の基準で教えてしまうのは容易い。だけど、どんなに困難なことだとしても、私は、ネウロ自身で気づいて欲しいから。
「いいよ、もう泣きやんだ」
涙を拭って、ネウロに笑顔を見せた。その瞬間、確かにネウロの表情が緩んだ。
「安心した?」
聞かなくても解るけど。ネウロはきょとんとしていた。あ、本人は自覚ないんだ。
「…………」
しばらく沈黙の後、ネウロは私の顎を持ち上げて、唇を重ねた。触れるだけの、優しい口づけ。
「そういうことはできるのにね」
「む、それはどういう意味だ」
その科白こそ、行為と感情が結びついていない証拠だ。と思っていたら。
「この気持ちとやらを考えていたら……こうしたくなったのだ」
そう言って、もう一度口づけをくれた。いつもより唇が熱っぽいと思うのは、気のせいじゃない……?
「我が輩なりにこの気持ちとやらを表してみたのだが」
今度は正面から抱きしめられた。どうも顔を見られたくないらしい。言葉で表さないのがネウロらしい、と思ったら、頬が緩んで。私も、ネウロの背中に腕を回した。
もしかして言葉で表せないのかな。でもいいや。ねえ、その気持ちって……私のあの気持ちと、同じだと思って良いよね?
++ fin ++