最終話:愛してる

 あれから一ヶ月経った。病院のベッドの上、ヤコはまだ目を覚まさない。
 そっとヤコの手を取る。ピクリともしない。ぎゅっと握りしめて、それから自分の頬へ持っていく。温もりがちゃんとある。生きてはいるのだ。

「アンタも毎日……疲れないか?」

 後ろから声がする。笹塚だ。奴も、暇を見てはちょくちょくヤコの様子を窺いに来る。
「大丈夫……です」
「……そうか」
 当たり前だがこの一ヶ月、ろくに『謎』を喰えていない。我が輩の脳髄は空腹を訴えて仕方がない。しかし、そんなのは些細なことだと放って、ずっとヤコを看ていた。面会開始から終了時間まで、それ以降は忍び込んで。ほとんど24時間、看続けている。

「アンタがその想いを、最初から言葉にしていれば、な……」

 ぽつりと笹塚が呟く。そして、無理するなよ、と言って病室を出た。

 言葉に……そう、我が輩はずっと、言葉にすることを避けていた。「その言葉」はむやみに口にするものでない、と何処かで聞いたからだ。それが間違いだったことに気づいたときにはこのザマだ。我が輩は初めて自分を愚かだと思った。

「愛してる……」

 ヤコの手を握り、呟く。その声は、届かない。身を乗り出して、ヤコの額に、頬に、瞼に、唇に、ついばむように口づける。
「愛してる、ヤコ……」
 祈るように繰り返す。反応は、ない。

 性行為が愛情を示すものだと知ったのだ、あの日……。そして、実行に移した。ヤコが拒絶する様を見ていささか憮然としたが、そのまま無理矢理遂行した。表面上の「主人と奴隷」という関係を崩さず、それでいて愛情を示せるこの行為を、我が輩は気に入っていた。
 それを続けるうちに、ヤコが抵抗をしなくなって、それを、受け入れられたのだと勘違いしていた。

 そんな日々を過ごすうち、ヤコが笹塚とつきあうということになった。忌々しいと思いながらも凝視虫で一部始終を見て。笹塚がヤコに口づけたら、ヤコははにかんで笑んだ。そうすればヤコは喜ぶのか、と知る。しかし、我が輩が口づけると、ヤコは涙を流して……さらに苛立ちを覚えた。

 笹塚との行為で嬌声を上げるヤコを見て、初めて自分の認識が間違っていることに気づいた。ならば、今までのヤコは何だったのか、と。我が輩は、何をしてきたのだ、と。笹塚の行為をなぞってみても、ヤコは涙を流すばかりだった。何故、我が輩はヤコを喜ばせることができない?

 ――アンタは……弥子ちゃんの心を壊してしまったんだ――。

 笹塚のこの言葉が頭から離れない。心を、壊した。何よりも、と求め欲したものを、自分の手で壊していた。これ以上の絶望はない。

「ヤコ……愛してる……」

 小さな手の温もりを確認して、何度も囁く。ヤコが目覚めるなら、この声が枯れるまで続けるだろう。

「愛してる」

 最初から言葉にしていれば、状況は違ったのか?

「愛してる」

 後悔先に立たず、とは人間風情がよく言ったものだ。

「愛してる」

 我が輩の身が朽ちるときが来ても、脳髄で囁き続けるだろう。

「愛してる……」


 魔力が尽きてくる。

「愛してる」


 体力が著しく低下する。

「愛してる」

 瞼が重い。
 体が重い。

「あいしてる」

 力が、出ない。




「あい、し、てる……」

















 ――ヤコが目覚めることは、なかった。


The End.

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